「どちら様ですか」。毎日ごはんを作って、薬を管理して、通院に付き添っている——その自分に、母がそう言う。

これほどこたえることは、そう多くありません。

結論からいうと、**あなたが忘れられたのではなく、本人の中の「今」がずれています。**そして、いちばん大事なことを先に書きます。国立長寿医療研究センターは、認知症が進んだ状態についても、こう明記しています。

嬉しいとか、悲しいとか感情は十分残っています。

名前が分からなくなっても、感情は届いています。

なぜ、いちばん近い人が分からなくなるのですか

同センターは、記憶が失われる順番について、こう説明しています。

認知症以外の方でも年齢を重ねていくと、昔のエピソードなどの記憶に比べて、ついさっきの内容、出来事などの記憶(短期記憶といいます)から忘れやすくなります。

**新しい記憶から先に失われていく。**これが、人物誤認の背景になります。

新しい記憶が積み上がらなくなると、本人の中にある「今」が、だんだん過去へ戻っていきます。本人の中の今が40年前なら、記憶の中のあなたは小学生です。目の前にいる中高年の女性は、その子とは結びつきません。

つまり——

  • あなたを忘れたのではない
  • あなたの年齢に、記憶が追いついていない

同センターは、認知症が進んだケースについて、**あなたとの関係もあいまいになっています(お母さんと間違えるなど)**と、具体例まで挙げて説明しています。娘が母と呼ばれることは、実際に起こることとして知られています。

「自分の妻」を「母」と呼ぶこともあります

同じ理屈で、こういうことも起こります。

  • 長年連れ添った夫を、弟と呼ぶ
  • 娘を、姉だと思う
  • 孫を、自分の子だと思う

関係が消えたのではなく、別の関係に置き換わっている状態です。

そして置き換わった先は、多くの場合、本人がいちばん安心していた時代の関係です。母と呼ばれるということは、あなたがその人にとって安心できる相手である、という受け取り方もできます。

訂正しないほうがいい理由

「私だよ、娘だよ」と伝えると、その場では分かってくれることがあります。ただ、しばらくするとまた戻ります。

問題は、繰り返したときに何が残るかです。同センターは、認知症が進んだ状態について、こう述べています。

怖い、怒られると怯える などの反応は強くなります。

訂正の内容は残りません。しかし責められた・困らせたという感情のほうは残りやすいといわれます。

つまり訂正を重ねるほど、伝えたい事実は残らず、「この人といると落ち着かない」という感触だけが積み上がっていきます。

同センターは、認知症の方への接し方をこう示しています。

  • 短く簡潔な表現を用いて、一度に多くの指示はしないように心がけましょう。
  • 訂正や否定的な表現ではなく、肯定的な表現を用いる。
  • ご本人の目を見る、微笑む、相槌を打つなどの非言語的コミュニケーションも使用しましょう。

名乗り方を変えてみる

よくある対応代わりに
「私だよ! 娘だよ!」と繰り返す「娘の◯◯です」と関係と名前をセットで、一度だけ
「昨日も来たでしょう」「また来ましたよ」(初めてのつもりで受ける)
分からないことを嘆いてみせる分からないまま話を合わせる
「お母さんじゃないよ」と否定呼ばれ方をそのまま受け取る

「よく来てくれる人」でいい日があっても構いません。関係の名前より、その場が穏やかであることのほうが、本人には残ります。

「感情は十分残っています」を、どう受け取るか

ここが、この記事でいちばんお伝えしたい点です。

同センターは、記憶や理解が失われた状態についても、こう書いています。

嬉しいとか、悲しいとか感情は十分残っています。 強い記憶のキーワードに反応することがあります。

つまり、こういうことです。

  • 名前が分からなくても、やさしくされた心地よさは届く
  • 続柄が分からなくても、急かされた不快さも届く
  • 昔よく歌った歌、地名、好きだった食べ物——強い記憶のキーワードには反応することがある

**「分からないなら、行っても無駄」ではありません。**分からない相手にやさしくされれば安心し、強く言われれば怯える。その場の感情のやりとりは、最後まで生きています。

会いに行くのがつらい日は

正直に書きます。理屈が分かっても、つらさは消えません。

自分の存在が相手の中から消えていく感覚は、他の介護の場面とは種類が違います。予期悲嘆——まだ生きているのに、失っていく感覚だといわれることもあります。

  • つらい日は、無理に会いに行かなくていい
  • 誰かに**「母に他人だと言われた」と話す**(言葉にするだけで違います)
  • 記録を残す(写真、動画、日記。あなたの記憶は消えません)

**親があなたを忘れても、あなたが親を覚えています。**育ててもらった日々がなくなるわけではありません。

抱え込みそうなときは、介護疲れ・介護うつもあわせて読んでみてください。

急に人が分からなくなった場合は別です

ゆっくり進む人物誤認と、急に始まったものは分けて考えてください。

  • 数日のうちに急に人の見分けがつかなくなった
  • 入院・手術・引っ越しの直後である
  • 夕方から夜にかけて特にひどい
  • 発熱・脱水・便秘・痛みのあとに始まった
  • 実在しない人が見えると言う

こうした場合、せん妄やレビー小体型認知症の幻視、身体の不調が背景にあることがあります。**医師に相談してください。**判断は医師が行います。

夕方に強まる場合は帰宅願望・夕暮れ症候群、夜間の混乱は昼夜逆転と夜間不穏も関係します。

家族だけで抱えないために

人物誤認は、家族の努力では止められない症状のひとつです。工夫できるのは接し方であって、進行そのものではありません。

  • 地域包括支援センター——介護の相談の入口。無料。地域包括支援センターとは
  • ケアマネジャー——すでに介護保険を使っているなら、まずここへ。ケアマネの選び方・変更
  • 家族会・介護者の集まり——同じ経験をした人と話せる場が、地域にあることがあります

在宅の限界を感じたら

「他人として扱われながら、世話を続ける」というのは、体力よりも先に気持ちのほうが削れます。

そして皮肉なことに、関係が分からなくなった相手には、専門職のほうが穏やかに接することができる場合があります。家族には「分かってほしい」という気持ちがあるからです。その気持ちがあること自体は、当たり前で、責められることではありません。

認知症の方の住まいとしては、少人数で家庭的な環境のグループホームが代表的な選択肢です。認知症の方向け施設一覧から、お住まいの地域の施設を確認できます。進め方は認知症の親の施設選び、本人が嫌がる場合は親が施設を嫌がるときを参考にしてください。

**施設に移っても、会いに行けます。**そして感情は、そこでも届きます。

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出典・参考

  • 国立研究開発法人 国立長寿医療研究センター「認知症の人と上手に向き合うために」対応に困る言動との向き合いかた(認知症が進んだケースでは「あなたとの関係もあいまいになっています(お母さんと間違えるなど)」/同じ状態について**「嬉しいとか、悲しいとか感情は十分残っています」「強い記憶のキーワードに反応することがあります」「怖い、怒られると怯える などの反応は強くなります」**/繰り返し同じことを聞いてくる場合=昔のエピソードなどの記憶に比べて、ついさっきの内容、出来事などの記憶(短期記憶)から忘れやすくなる・本人は初めて聞くつもりで毎回聞いている・その都度納得できるように答える/接し方=短く簡潔な表現・一度に多くの指示をしない・訂正や否定的な表現ではなく肯定的な表現を用いる・目を見る/微笑む/相槌などの非言語的コミュニケーション):https://www.ncgg.go.jp/dementia/with/face.html
  • 国立研究開発法人 国立長寿医療研究センター「認知症の人と上手に向き合うために」よくある質問(認知症ケアと介護者支援の考え方・一人では認知症ケアはできません・上手にサービスを利用して本人と穏やかな時を過ごせるように):https://www.ncgg.go.jp/dementia/with/answer.html
  • 厚生労働省「認知症施策」(認知症の理解と地域で支える取り組み・相談先):https://www.mhlw.go.jp/stf/seisakunitsuite/bunya/hukushi_kaigo/kaigo_koureisha/ninchi/index.html

まとめ

  • 人物誤認は、新しい記憶(短期記憶)から先に失われるために起こる。本人の中の「今」が過去に戻り、あなたの年齢に記憶が追いついていない状態
  • 公的機関も**「あなたとの関係もあいまいになっています(お母さんと間違えるなど)」**と明記している。特別なことではない
  • 夫を弟と呼ぶ、孫を自分の子と思う——関係が消えたのではなく、別の関係に置き換わっている
  • **訂正は逆効果になりやすい。**内容は残らず、責められた感情だけが残る。「怖い、怒られると怯える などの反応は強くなります」
  • 名乗るなら「娘の◯◯です」と関係と名前をセットで、一度だけ穏やかに
  • そして最も大事なこと——「嬉しいとか、悲しいとか感情は十分残っています」。名前が分からなくても、やさしさは届いています
  • 急に人が分からなくなった場合は別。せん妄や幻視の可能性があり、医師に相談する
  • つらい日は無理に会いに行かなくていい。親があなたを忘れても、あなたが親を覚えています
  • ひとりで抱え込む前に、認知症の方向け施設一覧から次の選択肢を確認できます